kiroku210310 4day
絵が分からなくなったので、本を読んでいる。
明日にはまた描けそうだ。
kiroku210309 3day
原神おもろい。
この数日は少し用事が重なっていて絵が描けなかった、という言い訳をしたいが、実家に帰るとだらけてしまうというのが本当のところ。
しかし絵を描かない分、色々考えることはあったのでまあ良しとする。
kiroku210305 2day
今日はボールペンスケッチ。
引いた線が消せない、線1つ1つを丁寧に描く必要があるという点で、今の俺にはいい練習になる気がする。少なくとも、ザッ、ザッ!となんとなくアタリをとっていこうとすることはなくなった。どこに、どんな線を引けばよりそれっぽく見えるのか、見ているものがより伝わるのか、ということも考えることができる。
女の子も色気があっていい。ただポーズもちゃんと考えておかないと、微妙な感じになってしまう。気を付けよう。
スケッチもいい感じなので、調子よくイラストを描いていく。
今回のイラスト
テーマ:美しい花々に彩られた幻想的な絵
何を伝えたいか:キャラクター、青、キャラのシルエットの美しさ、性格
エピソード:水の上を歩いている。指先が離れると同時に、しん、と静かに波紋が広がっていく。周りには淡い青の花々が控えめな態度で満ちている。周りは暗く、花だけがろうそくのようにほろほろと光を灯している。花を慈しんでいると数匹、蝶がやってきた。蝶は思い思いに水を飲み、蜜を吸って、戯れる。ふと頭で羽のはためきを感じて目をやると、一匹の蝶が青い髪飾りになっていた。
最近イラストにはエピソードが大切なんだなって気が付いたので、こんな感じで描きたいイラストのイメージを洗い出していく。
できたら早速クリスタを開く。
まずは軽い線画ラフから。
いいじゃん。
これは違う。イメージを全部突っ込んでみたがコレジャナイ感。まだ自分の中に落とし込めていない部分がある。そういえばシェイプが重要だって話があったな。
ってことで、シルエットだけにして手を加えていく。シルエットが美しく、可愛くなるように描いていく。
うん、いいと思います。
そこそこ上手くイラストっぽくなった気がする。これでうまくいくかは別の話だけど。まだ上の部分が寂しい感じ。点々少し足そうかな。あと髪ももうちょっと直したいとこ。全体のイメージはこれでいいかな。もう少し蝶を足すか…。
やっぱ単純な形で捉えると余計な事考えなくていいから整えやすいな。それぞれの工程にだけ集中するってのが大事なのかも。
kiroku210304 1day
「心を込めて描きなさい。描いたスケッチは、それまでに見てきたものを表す。だから、描くことをやめてはいけないのだ。描けば描くほど見えるようになる」
スケッチの重要性を説いたロバート・フォーセットの言葉。
長らくスケッチをしていないのだった。
ノートと…鉛筆はあるだろうか。
あった。HB。実家には6Bがあったのだ。今度とってこよう。
今日はHBでスケッチしてみる。何をスケッチしようか。
せっかくだから外に出てみようか。スケッチなのだから外に出てみたい。こんなことでしか外に出ることはない、というのもなんだか出不精で困る。
さっそく、黄色の花とタイヤの金属部分をスケッチした。
描いたものが何か全然分からない。悔しい。だからスケッチは好きじゃない。今度スケッチの練習本を借りてこよう。スケッチをすると、見えていなかったものを見ることができる。続けよう。
ちなみにA4サイズは大きすぎてややスケッチがやりづらいことに気づいた。
明日はB5サイズでやってみることにする。
そして今日は昨日の続き。天使ちゃんの仕上げをしようかな。
というわけで仕上げた。
イラストとしては悪くないんじゃないかな。
ただ描きたいものではなくなっちゃったんだよな。なんだろ。もっとかわいいかわいい感じのイラストが描きたい。かわいいが充満した空気を描きたいんだよな。
次はそういうのが描きたい。
イラストにおける「擬人化」の定義を求めて
国の擬人化、動物の擬人化、キャラクターの擬人化など、「擬人化」というジャンルは世間的に高い認知を得ており、ネットの海には擬人化イラストが連日、大量にあげられているのはツイッターやpixivなどを常習するオタクたちにとっては周知の事実と思われる。
しかし擬人化という一ジャンルであっても、その多用性は高い。例えば、人間が擬人化元を特徴づけるものを身に着けているもの、半妖のような姿をしているもの、商品に手足がついているもの、そのものの姿で喋る・動くといった要素をもつものなど、その表現方法は多岐にわたる。
そんな世界に浸かっているので今や当たり前のように擬人化という単語を使うようになっているが、果たして実際のところ我々は擬人化について深く理解しているだろうか。擬人化という概念の多様性に甘んじてはいないだろうか。
そこで本記事は、特にイラストにおける擬人化に注目し、その定義について考えてみようと思う。
1.広義としての擬人化
本論に入る前に、擬人化という単語そのものについて考える。知っておくべきは擬人化とは擬人観という考え方を土台とした表現方法であるということだ。
擬人観の意味は次のように記述されている。
人間以外の動植物、無生物、事物、自然、概念、神仏などに対し人間と同様の姿形、性質を見いだすこと。Wikipediaより引用
人間の特性を他の事物にあてはめ、人間と類似したものとして説明しようとする考え方。例えば、神が人間と同じような姿をして同じ言葉を使うと考えるような見方。 goo辞書より引用
対して擬人化の意味は次のように記述されている。
人間以外のものを人物として、人間の性質・特徴を与える比喩の方法である。Wikipediaより引用
人間でないものを人間に見立てて表現すること。goo辞書より引用
これらの意味から考えると、擬人化とは
「人間ではないものから人間らしさを見出すという考え方を土台とした比喩表現」
だと、思う。ひとまずこの記事中では広義の擬人化を上記のように定義する。次に狭義の擬人化、すなわち創作活動における表現方法である擬人化のうち、イラストにおける擬人化について考えていく。
2.イラストにおける擬人化の例
物事に対する定義を知りたい時には、帰納法*1を使って考えるのが一つの方法だろう。イラストにおける擬人化の定義についても、多くの特殊な例をもとに一般化したいのだが、そんな時間はないので1つの例から考えることにする。
この写真にはヒマラヤンという種類の猫が写っている。このヒマラヤンがどのような生態をしているのか、俺には知るよしもないことだがおそらく一般的な猫という種の枠を外れないものと思う。つまりただの猫である。そしてこのヒマラヤンは猫という種の一例としてもってきたにすぎない。そのため、このヒマラヤンはペルシャでもスコティッシュフォールドでもベンガルでもスフィンクスでもなんでもいい。
まず、本記事のテーマはイラストにおける擬人化なので、分かりやすくイラストにしたヒマラヤンをもとに代表的な擬人化のパターンを見ていく。ちなみにこのイラストは、人間の性質等をもっておらず、擬人化されていないと言える。
パターン1:人間の言葉を話す猫
猫が人間の言葉を話して何かを伝えてくる。もちろん現実で猫が人間の言葉を話すことはないので完全な創作、表現の範疇である。このパターンは猫の姿、性質、心身の機能などをほぼそのままに、人間の特徴である「人間独自の言葉を話す、理解する」という機能をもっていることになる。この場合、身体的な変化は起こっていないので、吹き出しが擬人化という表現を担っている。吹き出しがない場合、普通の猫と判別は不能である。
パターン2:二足歩行する
猫が二足歩行して、なんなら歩いたり踊ったり逆立ちしたりする。もちろん現実で猫が二足歩行したり、歩いたり踊ったり逆立ちしたりはなかなかしないだろう。まあ、二足歩行できる猫というのはネットで見たりもするが、普段から二足歩行していることはおそらくない。人間がたまに気分で四足歩行したくなるようなものであろう。このパターンは猫の姿ほぼそのままに、人間の特徴である「二足歩行する」という性質をもっていることになる。こうなると、人間の性質の一部をもっていることが直感的に伝わってくる気がする。しかしまだまだ猫である。急にイラストのテイストが変わったな、と思うかもしれないがあくまでも適した画像を拾ってきているに過ぎない。
この画像を見ていると猫ラーメンを思い出すな。
パターン3:半妖のような姿になる
半分猫、半分人間のような姿。このくらいがベストと考える人もいるだろう。何がとは言わないが。ここまでくると何も言われなくても擬人化イラストだなと分かる。一昔前の擬人化というと、こっちの方が多かったように思う。このパターンは猫の姿をもとに人間の姿かたちの特徴(骨格など)をもっていることになる。名探偵ホームズなんかがこのパターンの擬人化を用いている。あれでケモナーになった人間は多いのではないだろうか。
パターン4:猫耳・尻尾だけ
猫耳と尻尾のみが猫の特徴として残ったもの。萌えイラストとしての擬人化という印象を受ける。このパターンはまさしく人間の姿ほぼそのままで、むしろ人間が猫としての要素(猫耳・尻尾)を持っているというのが正しいような。最近の擬人化というとこのパターンが多い気がする。猫としての姿を行ったり来たりできるキャラクターだと大胆にここまでできたりする。
パターン5:衣装が猫
人間が猫の衣装を着ている。もはや中身は完全に人間となった。このパターンでは原型である猫としての要素はかろうじて衣装には用いられている。が、この衣装を脱いだ時、このキャラクターは一体どうなってしまうのだろうか。国や組織、文化などを擬人化する際、二次元や萌えキャラが一般に浸透した時代ではこれが最適解であるといえなくもない。
人
元の猫要素がすべて抜け、人間と化した姿。もはや擬人化ではなく人である。しかし、喜びや達成といった概念の擬人化であると説明を受けたとすると、話は少し変わりパターン5に近い存在となるかもしれない。
ここまで擬人化の主なパターンを5つ見てきた。擬人化の度合いこそ違うが5パターンのどれもが、猫という概念に擬人化という表現を取り入れたことでイラストとしての力を持ったことが分かる。これは広義の「人間ではないものから人間らしさを見出すという考え方を土台とした比喩表現」を用いたことによるものであるといえよう。そのため人間でなく、人間らしさを見出せない猫のイラストや、そもそも人間であるイラストには擬人化という表現方法を用いたことにはならない。
だが、見てきたパターンの中で擬人化かどうか少し怪しいものがあった。
パターン1とパターン5である。
これらは擬人化の要素が描かれた「キャラクター」という系の外部に存在している。
パターン1に関しては「人間の言葉を話す」という要素こそ内包されてはいるものの、口を閉じれば要素は外には決して出てこない。パターン5では、キャラクターという系の中に要素があるかはもはや分からない。普通の人間がこのような衣装を身に着けているとみることも十分に可能なのだ。たとえそのキャラクターが確かに擬人化されたものであっても、イラストという一部分を切り取った表現においては曖昧なものとなってしまう。つまり「受け手」に伝わりづらい擬人化となるのだ。
3.描き手と受け手
イラストが表現方法として用いられているということは当然、描き手と受け手が存在することになる。そして描き手が伝えたいものが必ずしも受け手に伝わってくれるとは限らない。描き手が擬人化という表現を使って伝えたいことが受け手には全く別の意図として伝わっているかもしれない。つまり、イラストにおける擬人化という表現で最も重要なことは、擬人観の共有であると考えられる。描き手の擬人観が受け手にも伝わってこそ、擬人化イラストを擬人化イラストたらしめるのだ。
4.イラストにおける擬人化の定義
以上のことをふまえ、イラストにおける擬人化の定義を作るとすれば
「擬人化とはイラストにおいて、描き手の擬人観を、想定する受け手に伝える表現法」
であると言える。あくまで個人の考えではあるが。もし反論、質問などあればお寄せ願いたい。
追伸
一人でいることに限界を感じたので、一人でも幸せに生きたい。そう思って瞑想を始めて分かったのが、いかに自分がノイズに振り回されていたのかということであった。確かに最近は音楽や動画を常にかけていないと不安になるし、生きている実感が持てなかった。半分死んでいるような気分。外に幸せを求めすぎていたのだ。これからは自分ともっと向き合って生きていきたい。
勉強など馬鹿らしくていい
「勉強って何のためにするんですか」
塾の先生になって数か月が経ちましたが、こんな疑問を投げかけてくれるほどに生徒と仲良くはなれていません。もっと仲良くなって先生として少しでも、彼らの疑問や不安を解決して上げられたらと思うばかりです。
さて、「勉強とは何のためにするのか」という難題を投げかけられたとしても、生徒に一つ新たな見解というのを示すことができるのが先生という立場なのではないでしょうか。少なくとも私はそうありたいと考えています。
では、勉強は何のためにするのでしょうか?
最近出た答えは単純明快で、「人生を楽しむため」
おそらくですが、「人生で苦しむため、つらい思いをするため」勉強をするという人はあまりいないのではないでしょうか?勉強をしていて苦しいとき、つらいときもあります。しかしそれでも勉強をするのは、やはり人生を楽しむためなのです。
将来への投資。未来の自分のために、いい職業に就くために、夢をかなえるために。
今苦しくても辛くても勉強する。
…という意味ではありません。
そういう目的で勉強をするのもいいですが、将来など気にしていない。夢なんて特にない。そんな人は勉強をする意味がないのかといえばそんなわけはない。
そもそも勉強すること自体が楽しいものであるはずなのです。
式変形が楽しいから数学をする。
植物がなぜ生きているのか知りたいので辞書や参考書を引いてみる。
読んで気持ちいい文章はなぜそう感じるのか知るために言語学を学ぶ。
こんな理由で勉強している人は周りから見れば尊敬と畏怖の対象でしょう。
それがおかしいのです。そもそも勉強というのはそういうものだったはずなのです。
知的好奇心を満たす。それが勉強の本質だったはず。
それがいつのまにか、将来のためとか、受験のためとか。目的がすり替わってしまったのではないかと思うのです。
まるで勉強をすることが未来への保証であるかのように。
そんな崇高なものであると勘違いするから、初学者の多くが身構えて、襟を正して挑もうとしてしまうのです。
勉強というのは、もっと泥臭くて、ばかばかしくて、楽しいものであるべきです。
公園で見つけた変わった石を「綺麗だ」と感じてポケットにしまって部屋の隅に飾って眺めて、触って転がして遊ぶような、そんなものであってほしいと私は思います。
私の生徒にはそんな風に勉強と向き合ってほしい。
やらなければならないとか、将来のためとか。そんな世間や周りからの偏愛をかなぐり捨てて、ただただ楽しくペンを動かしてほしい。自分の世界が広がっていくのを感じてほしい。
コップの中に水分子が見えたり、ふとした現象を数式にしたくなったり、旅行先で日本の歴史とその地域の歴史の差に圧倒されてみたり。知らない世界への扉が、どれだけ自分の周りに溢れているかをその肌で実感してほしい。
どうすればそんな風に思ってくれるだろうと考えながら、私もまた勉強する。
Youtubeチャンネルを開設しましたよ
Youtubeチャンネルを作りました。やっぱ時代はようつべよ!
まあね、これからやってく中で作っておいて損はないと思ったんで。今はお絵描き配信ばっかりになると思います。しかもIxyさんのようにしっかり絵を仕上げられたらよいのですがね。まだまだ未熟ゆえ、ご勘弁。本当に描きたい時に描きたいように描いてます。
なので、すんごい過疎ってます…
ものすんごく過疎ってます。過疎過疎の過疎です。寂しいです。そうでもないけど。
やっぱ配信してるんでせっかくならチャット見て反応したいじゃないですか。
普段話せないような人たちとチャットを通しておしゃべりしたりとか、ね?
作業している間、ちょっとバックグラウンドで流してみるもよし。
どんな様子か覗いてみるもよし。
…待ってます。
来てくれたらついでにチャンネル登録もしていってほしいな。