イラストにおける「擬人化」の定義を求めて

 国の擬人化、動物の擬人化、キャラクターの擬人化など、「擬人化」というジャンルは世間的に高い認知を得ており、ネットの海には擬人化イラストが連日、大量にあげられているのはツイッターやpixivなどを常習するオタクたちにとっては周知の事実と思われる。

 しかし擬人化という一ジャンルであっても、その多用性は高い。例えば、人間が擬人化元を特徴づけるものを身に着けているもの、半妖のような姿をしているもの、商品に手足がついているもの、そのものの姿で喋る・動くといった要素をもつものなど、その表現方法は多岐にわたる。

 そんな世界に浸かっているので今や当たり前のように擬人化という単語を使うようになっているが、果たして実際のところ我々は擬人化について深く理解しているだろうか。擬人化という概念の多様性に甘んじてはいないだろうか。

 そこで本記事は、特にイラストにおける擬人化に注目し、その定義について考えてみようと思う。

 

 

 

1.広義としての擬人化

 本論に入る前に、擬人化という単語そのものについて考える。知っておくべきは擬人化とは擬人観という考え方を土台とした表現方法であるということだ。

 擬人観の意味は次のように記述されている。

人間以外の動植物、無生物、事物、自然、概念、神仏などに対し人間と同様の姿形、性質を見いだすこと。Wikipediaより引用

人間の特性を他の事物にあてはめ、人間と類似したものとして説明しようとする考え方。例えば、神が人間と同じような姿をして同じ言葉を使うと考えるような見方。 goo辞書より引用

  対して擬人化の意味は次のように記述されている。

人間以外のものを人物として、人間の性質・特徴を与える比喩の方法である。Wikipediaより引用

人間でないものを人間に見立てて表現すること。goo辞書より引用

  これらの意味から考えると、擬人化とは

 

「人間ではないものから人間らしさを見出すという考え方を土台とした比喩表現」

 

だと、思う。ひとまずこの記事中では広義の擬人化を上記のように定義する。次に狭義の擬人化、すなわち創作活動における表現方法である擬人化のうち、イラストにおける擬人化について考えていく。

 

2.イラストにおける擬人化の例

 物事に対する定義を知りたい時には、帰納法*1を使って考えるのが一つの方法だろう。イラストにおける擬人化の定義についても、多くの特殊な例をもとに一般化したいのだが、そんな時間はないので1つの例から考えることにする。 

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 この写真にはヒマラヤンという種類の猫が写っている。このヒマラヤンがどのような生態をしているのか、俺には知るよしもないことだがおそらく一般的な猫という種の枠を外れないものと思う。つまりただの猫である。そしてこのヒマラヤンは猫という種の一例としてもってきたにすぎない。そのため、このヒマラヤンはペルシャでもスコティッシュフォールドでもベンガルでもスフィンクスでもなんでもいい。

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 まず、本記事のテーマはイラストにおける擬人化なので、分かりやすくイラストにしたヒマラヤンをもとに代表的な擬人化のパターンを見ていく。ちなみにこのイラストは、人間の性質等をもっておらず、擬人化されていないと言える。

 

パターン1:人間の言葉を話す猫

 猫が人間の言葉を話して何かを伝えてくる。もちろん現実で猫が人間の言葉を話すことはないので完全な創作、表現の範疇である。このパターンは猫の姿、性質、心身の機能などをほぼそのままに、人間の特徴である「人間独自の言葉を話す、理解する」という機能をもっていることになる。この場合、身体的な変化は起こっていないので、吹き出しが擬人化という表現を担っている。吹き出しがない場合、普通の猫と判別は不能である。

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 パターン2:二足歩行する

 猫が二足歩行して、なんなら歩いたり踊ったり逆立ちしたりする。もちろん現実で猫が二足歩行したり、歩いたり踊ったり逆立ちしたりはなかなかしないだろう。まあ、二足歩行できる猫というのはネットで見たりもするが、普段から二足歩行していることはおそらくない。人間がたまに気分で四足歩行したくなるようなものであろう。このパターンは猫の姿ほぼそのままに、人間の特徴である「二足歩行する」という性質をもっていることになる。こうなると、人間の性質の一部をもっていることが直感的に伝わってくる気がする。しかしまだまだ猫である。急にイラストのテイストが変わったな、と思うかもしれないがあくまでも適した画像を拾ってきているに過ぎない。

この画像を見ていると猫ラーメンを思い出すな。

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パターン3:半妖のような姿になる

 半分猫、半分人間のような姿。このくらいがベストと考える人もいるだろう。何がとは言わないが。ここまでくると何も言われなくても擬人化イラストだなと分かる。一昔前の擬人化というと、こっちの方が多かったように思う。このパターンは猫の姿をもとに人間の姿かたちの特徴(骨格など)をもっていることになる。名探偵ホームズなんかがこのパターンの擬人化を用いている。あれでケモナーになった人間は多いのではないだろうか。

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パターン4:猫耳・尻尾だけ

 猫耳と尻尾のみが猫の特徴として残ったもの。萌えイラストとしての擬人化という印象を受ける。このパターンはまさしく人間の姿ほぼそのままで、むしろ人間が猫としての要素(猫耳・尻尾)を持っているというのが正しいような。最近の擬人化というとこのパターンが多い気がする。猫としての姿を行ったり来たりできるキャラクターだと大胆にここまでできたりする。

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パターン5:衣装が猫

 人間が猫の衣装を着ている。もはや中身は完全に人間となった。このパターンでは原型である猫としての要素はかろうじて衣装には用いられている。が、この衣装を脱いだ時、このキャラクターは一体どうなってしまうのだろうか。国や組織、文化などを擬人化する際、二次元や萌えキャラが一般に浸透した時代ではこれが最適解であるといえなくもない。
 

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 元の猫要素がすべて抜け、人間と化した姿。もはや擬人化ではなく人である。しかし、喜びや達成といった概念の擬人化であると説明を受けたとすると、話は少し変わりパターン5に近い存在となるかもしれない。

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 ここまで擬人化の主なパターンを5つ見てきた。擬人化の度合いこそ違うが5パターンのどれもが、猫という概念に擬人化という表現を取り入れたことでイラストとしての力を持ったことが分かる。これは広義の「人間ではないものから人間らしさを見出すという考え方を土台とした比喩表現」を用いたことによるものであるといえよう。そのため人間でなく、人間らしさを見出せない猫のイラストや、そもそも人間であるイラストには擬人化という表現方法を用いたことにはならない。

 

 だが、見てきたパターンの中で擬人化かどうか少し怪しいものがあった。

 

 パターン1とパターン5である。

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 これらは擬人化の要素が描かれた「キャラクター」という系の外部に存在している。

 パターン1に関しては「人間の言葉を話す」という要素こそ内包されてはいるものの、口を閉じれば要素は外には決して出てこない。パターン5では、キャラクターという系の中に要素があるかはもはや分からない。普通の人間がこのような衣装を身に着けているとみることも十分に可能なのだ。たとえそのキャラクターが確かに擬人化されたものであっても、イラストという一部分を切り取った表現においては曖昧なものとなってしまう。つまり「受け手」に伝わりづらい擬人化となるのだ。

3.描き手と受け手

 イラストが表現方法として用いられているということは当然、描き手と受け手が存在することになる。そして描き手が伝えたいものが必ずしも受け手に伝わってくれるとは限らない。描き手が擬人化という表現を使って伝えたいことが受け手には全く別の意図として伝わっているかもしれない。つまり、イラストにおける擬人化という表現で最も重要なことは、擬人観の共有であると考えられる。描き手の擬人観が受け手にも伝わってこそ、擬人化イラストを擬人化イラストたらしめるのだ。

4.イラストにおける擬人化の定義

 以上のことをふまえ、イラストにおける擬人化の定義を作るとすれば

 

「擬人化とはイラストにおいて、描き手の擬人観を、想定する受け手に伝える表現法」

 

 であると言える。あくまで個人の考えではあるが。もし反論、質問などあればお寄せ願いたい。

 

追伸

 一人でいることに限界を感じたので、一人でも幸せに生きたい。そう思って瞑想を始めて分かったのが、いかに自分がノイズに振り回されていたのかということであった。確かに最近は音楽や動画を常にかけていないと不安になるし、生きている実感が持てなかった。半分死んでいるような気分。外に幸せを求めすぎていたのだ。これからは自分ともっと向き合って生きていきたい。

*1:帰納法:その手の専門家でも賢い人間でもないし、深くも習っていないので半端な知識をもとに使うことになる。まあ細かいことは気にしないでほしい。