ロマンとは歴史の残渣かもしれない

昔話だ。

 

私の祖父母の家の玄関。その上には雨受けするための狭い屋根のようなものがあった。

 

逆三角にせり出たそこは昔、私の秘密基地だった。

 

祖父母の家のすぐそばには、また別の家が建っていて、少し地面が高くなっていた。その家から祖父母の家の玄関を見下ろすことができるような位置だ。

 

そしてせり出している玄関の屋根は、その家から小学生の私がやっとこ登れる場所にあった。手をかけて足を登らせて体を横に這わせるように屋根に着く。

 

座ってみると小さい体でもあぐらをかくことすら難しいほどの幅で、私は屋根から足だけをぶらりと揺らした体勢でいることが多かったと思う。よくそこで友達とゲームをして遊んだ。

 

あの時代は初代DSからDSLiteへの転換期で、いろいろとカセットは持っていたが、その頃はまっていたケロロのゲームを、友達と交代で遊ぶのが日課だった。

 

 

 

 

ふと、そんなことを思い出した。久しぶりにその場所に来たからだ。あの頃はやっとこ登っていた玄関の屋根も、今では簡単に上がることができるだろう。

 

しかし、屋根に手をかけることはしない。もうそんな欲求は過去に置いてきてしまったようだ。

 

 

 

でも、あの頃には見えなかった景色が、そこにあるかもしれない

 

今度は手をかけてみようか。

 

置いてきたものは、意外と簡単に見つかるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんてクサイ文だ。ぷんぷん臭う。うーんクサイクサイ。

 

つまりだ、過去にあったのに今はもう無いものというのは、すごくロマンが溢れているなと思ったわけだ。過去は美化される。

 

学校の図書館というのは意外と面白い。なにせ、思いもよらないものが眠っている。

 

図書館には本当にいろいろな本が置いてある。参考書や小説、図鑑に雑誌、辞書。まだまだたくさん。まさに知識のダムといったところだ。しかし、普通よく見る表舞台から降りて、書庫なんかに足を運ぶと、表の書架とは異質な空気が漂っている。

 

書庫というだけあってまさに本の倉庫。古い本がたくさんしまわれている。彼らは現役を退いた兵士みたいに、穏やかな威圧感を背負っている。

 

約80年前、1917年に発行された気象学の本なんかすごい。もう書かれている文字から違う。旧字体がどうこうとかのレベルではない。漱石全集なんかもそうだが、日本語なのに読むのをためらわれるほど読みづらい。読むという行為の前に読み解くという作業が必要なのだ。

 

しかし、それもまた面白い。ざらざらとした深緑の表紙に触れていると、1917年という時代に指先だけ浸かっているような気持ちになる。これぞロマンだ。

 

まあ1917年というと、あまりに自分とはかけ離れていて想像しにくい。

 

そんな中見つけたのが、文芸部の部誌だった。

 

文芸部?

 

うちに文芸部なんかあっただろうか、記憶にない。あったら申し訳ない。ないと思う。いくら記憶を探っても見つからないので、多分ないのだ。

 

とってみると、コピー誌だ。手作り感がむしろいい。

 

開いてみると意外とちゃんとしている。目次の体裁から、意欲が伝わってくる。不思議だがなんとなくわかるのだ。なんというか、こういうものが作りたいという意欲。意志。そういうものは伝わる。ぱらぱらと捲ると、あっという間に最後のページに着いた。編集後記。

 

いいなと思った。部誌を作り上げたことの誇らしさとか感動とか、やっぱり伝わってくる。発行年が書いてあった。2005年。もう16年も前だ。人間の歴史としては16年は短い。だが、一学生からすれば16年ともなると、ずいぶんと古いものだと感じてしまう。

 

胸が躍る。ドキドキした。こんなものがあったのかと。私が幼い体を存分に使って遊び倒していた頃に、知らない誰かが文芸部として部誌を作っていたんだ。そして16年の時を経て、私がそれを手にする。名前以外のすべてを知らない人たちが、情熱を込めて作った小さな本。

 

これをロマンと言わずして何と言おうか。

 

それは計3冊あった。さらに副読本的な部誌が数冊。文芸部の活動は長くは続かなかったようだ。ちなみに一番新しいのは意外にも2016年のものだった。

 

しかしそれには、「文芸同好会」の文字。編集後記もなく、全ては移りいくという事実が形となって残されていた。

 

切ない。

 

私には見えた気がした。

 

机をくっつけて、みんなで書いた作品を回し読む。誰かが笑う。みんなが笑う。原稿の擦れる音。うーんと唸る。こつこつと鳴る靴の音。誰かが入ってくる。机を動かす。ガラガラ。

 

部長は誰だろう。みんなを引っ張る、才能溢れる作家はいたのだろうか。楽しかっただろうか。トラブルも、やはりたくさんあったのだろうか。時代を作っていくその景色を、その時間の中で見れたならどれだけ良かったか。

 

また、部誌をぱらぱらとめくった。もう文芸部だった人たちはこの学校から飛び立っていった。文芸部は、もうない。結局のところ、発足当時の意志なんか正しく引き継がれはしない。

 

だからこそ、正しい意志はその部誌の中に封をされて、長い年月息をひそめ続けていた。

 

他に誰か、これを見つけた人はいたのだろうか。見つけた人は気に留めただろうか。

 

形として残っている限り、そこに込められた思いは、いつか誰かが正しく受け取ってくれる。形に残っていなければ、いつかは誰も受け取れなくなる。

 

人の歴史も、多くは形に残ることなく、風化して元素に帰る。

 

そのはずだった歴史が何か形として残り、誰かがそれを正しく受け取る。もしかすると間違って受け取るかもしれないが。

 

そんな過去の残渣こそが、歴史のロマンなのかもしれない。